From the End of the Qing Dynasty to the National Government Era
アヘン戦争、太平天国、アロー戦争
ここでは、清朝末期から国民政府時代の歴史を概観し、その中で科学技術に関係する点について触れる。
18世紀半ばに始まった産業革命により国力を強化した英国は、他の西欧諸国を押さえてアジア地域における覇権を握った。英国本土ではこの頃喫茶が普及し、中国(清)から購入する茶の代金として銀を充てていたが、18世紀末頃からインドで産出したアヘンを清に持ち込むようになった。1830年代になると清のアヘン輸入量が激増し、危機感をつのらせた清の欽差大臣・林則徐はアヘンの全面禁輸を断行し、1839年に英国商人の保有するアヘンを没収・焼却した。
これに反発した英国は、翌1840年に遠征軍を派遣してアヘン戦争を起こした。軍事力に優れた英国は清の軍隊を圧倒し、1842年に清は屈服して南京条約の締結となった。この条約により、清は上海などの5港を開港するとともに香港島を割譲し、賠償金の支払いを約束した。
南京条約の結果、清は国民に重税を課したため、征服王朝の清を倒して漢民族を復興させようという運動が中国各地で勃発した。太平天国もその一つであり、洪秀全を指導者として1851年に武装蜂起し、1853年には南京を占拠した。
1856年、英国船籍のアロー号の中国人船員を清朝官兵が逮捕したことに端を発し、清と英国およびフランスとの間でアロー戦争が勃発したが、強大な英仏の軍事力の前に清は屈服し、1858年の天津条約、1860年の北京条約によって終結した。
内紛を幾度か繰り返しつつも存在していた太平天国は、清が西洋式の銃や大砲を装備した軍を完成させたり、欧州列強が鎮圧に加わったことなどから衰退し、洪秀全の死亡とともに1864年に滅亡した。
同治の中興と洋務運動
同治帝の即位から死去までの1861年から74年までの時期は、アロー戦争の敗北、太平天国の鎮定の後で比較的安定が続いた時期であり、同治の中興とも呼ばれる。この間、同治帝の母親である西太后が実権を握り、登用された漢人官僚である曽国藩や李鴻章らは近代ヨーロッパの軍事力の強大さを痛感し、中国の伝統的な文化や制度を守りながらも西洋の技術を取り入れて国力の増強を目指す「洋務運動」を実施した。
洋務運動では「中体西用」とするスローガンが有名であり、中国の儒教を中心とする伝統的な学問や制度を主体(中体)として、富国強兵の手段として西洋の技術文明を利用すべき(西用)との考えである。具体的には、対外関係を扱うための体制整備と外国語の習得、軍隊の装備の充実と訓練などによる強兵化、さらには優れた若者を欧米に派遣し言語や技術などを習得しようとする試みである。このため同治の中興の時代は一定の国力の回復が見られた。
洋務運動の成果をいくつか挙げると、1962年北京に設置された「京師同文館」と、軍備拡張などを目指して1966年に設置された「福州船政学堂」などである。また、優れた子供を選抜し米国に派遣して科学技術などを学ばせる留学区制政策である「幼童留美」政策も1972年に開始されている。
現代中国では、この洋務運動に対する見方は非常に厳しい。とりわけ日清戦争の黄海海戦や威海衛の戦いにおいて、洋務運動の華ともいうべき北洋艦隊が日本の連合艦隊に惨敗したことから、技術的な面のみを取り込んで旧弊な政治制度・軍制を守ろうとし、合理主義などの西欧流の近代思想を取り込むことに失敗したと評価される。ただ、洋務運動により軍事、工業、教育、通信などの整備が進み、中国の近代科学の礎の一部が構築されたことは紛れもない。
戊戌の変法と清の滅亡
1894年に日清戦争が勃発し、清は1895年に敗北し、下関条約によって台湾の割譲と巨額の賠償支払いを約束した。清が日本に敗北したことを見たロシア、英国、ドイツ、フランスなどの欧州列強は、1896年から1899年にかけて清国内に独自の勢力圏を樹立していった。
この様な状況に危機感を抱いた康有為や梁啓超らは、技術面だけの洋務運動に限界があるとして、国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え、1898年に光緒帝と結んで政権を奪取した。これを「戊戌の変法」と呼ぶが、西太后率いる保守派のクーデターに遭って光緒帝は失脚・幽閉された。挫折にともない戊戌の変法はほとんど無となってしまったが、その改革の中で唯一残ったのが「京師大学堂」の設立で、これが北京大学の前身である。
1899年、「扶清滅洋」をスローガンに掲げる義和団が蜂起し、翌1900年西太后は列強に宣戦布告したが、逆に北京を占領されて敗北した。和平のために結ばれた北京議定書で、清朝政府は当時の国家予算の数倍にあたる賠償金の支払いを約束させられた。
賠償金の取り立ては過酷すぎるとの国内外の意見を踏まえ、米国は1909年に条件付きで賠償金の一部を中国に返還することとした。その条件というのが、返還される賠償金を中国人学生の米国への留学費用に充てることであった。この決定を受けて政府により開始されたのが、「庚款(こうかん)留学生」の制度であり、1911年に、清朝の庭園であった清華園の敷地の一部に、中国人学生の米国留学準備のための学校として「清華学堂」を設置した。これが現在の清華大学の起源となっている。
辛亥革命と国民政府の樹立
西太后の死亡によって清は漸く近代化改革に踏み切り、科挙の廃止、行政府の解体再編などの改革を行ったが、老帝国を建て直すことは出来なかった。1911年10月に辛亥革命が起こり、翌1912年1月、孫文は南京で中華民国の樹立を宣言した。翌2月、北京にいた清朝皇帝・溥儀(宣統帝)は退位を表明した。その後革命政府内での主導権争いの後、1913年10月に袁世凱が大総統に就任した。
1925年に孫文が没した後、国民党は軍人で黄埔軍官学校校長であった蒋介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。その後、国民党内での争いや中国共産党との対立を経て、1928年に蒋介石を指導者とする南京国民政府が成立した。
南京で成立した国民党による国民政府は、近代的な科学技術や学術研究の重要さを認識し、1928年に「中央研究院」を、1929年に「北平研究院」を設置した。
満州事変、日中戦争
辛亥革命後の混乱に乗じた日本軍は、1928年に張作霖爆殺事件を起こし、1931年には柳条湖事件(中国では918事変と呼ぶ)を契機に満州(現中国東北地方)侵略を開始した。その後日本軍はチチハル、錦州、ハルビンなどを占領し、1932年3月には清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を執政として「満州国」の建国を宣言した。
日本軍の侵略のなかでも国民党と中国共産党の抗争は収まらず、1934年には国民党の攻勢により中国共産党は本拠地の江西省瑞金を放棄し、長征により西部に移動して組織の再編を図った。長征の結果、中国共産党は陝西省延安に拠点を移した。
1937年、北京郊外において盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は上海、南京など多数の都市を占領し、国民政府の首都は南京から西部の重慶に移転された。中国の科学技術を支えてきた主要な研究所や大学も、日本軍の侵略を受けて、戦禍の少ない西部に疎開を強いられた。
1941年末に日本は米国や英国とも戦端を開き、第二次世界大戦に突入した。国民政府は連合国側に所属し、米国や英国の援助もあって中国大陸の戦線は膠着状態となった。
1945年8月、ポツダム宣言の受諾とともに日本軍が降伏し、日中戦争は終結した。中国は第二次大戦の戦勝国としての地位を占め、欧州諸国も香港やマカオを除く租界を返還するなど、一世紀近くにわたった半植民地化は漸く終わりを見せた。