The founding era of the People's Republic of China

中国共産党による建国とソ連との協調

 1945年の日本の敗戦にともない日本軍が中国から撤収していく中で、国民党軍と中国共産党の人民解放軍による内戦が勃発する。当初優位を保っていた蒋介石率いる国民党軍は徐々に劣勢となり、中国全土で人民解放軍の勝利が続き、内戦に敗れた国民党政府は台湾に撤退した。1949年10月1日、天安門で建国式典が行われ、毛沢東中国共産党主席が中華人民共和国の成立を宣言した。

 建国直後に科学技術の中心機関として中国科学院が設立されるととともに、日中戦争や国共内戦時に地方に移転し活動の停滞をやむなくされていた大学が北京や上海などへ戻り教育・研究活動を再開した。これにともない、戦争や国共内戦を避けて外国で研究活動を行っていた中国人の研究者で帰国するものが増えていった。1955年には、優れた学者を認定しその意見を聴取するため、中国科学院学部委員(現在の中国科学院院士)制度を創設した。

 1950年にソビエト連邦と中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、翌1951年に勃発した朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、中国は東側の社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。内政においても、1950年より地主制の一掃と土地の再分配を目指す土地改革が開始された。1953年からソ連の計画経済に倣い「第一次五か年計画(1953年~1957年)」が開始され、社会主義による農業、商業、工業システムの構築が進められた。
 科学技術、教育などの分野においても、ソ連との協力が進められた。その一環として1950年1月、ソ連の専門家の受入れ業務をスムーズに行うため専門家招待処が設置された。また大学システムが見直され、ソ連を範として学部を再編する院系調整が1952年に実施された。さらに同年、大学への新入生の質を確保するため統一入学試験である高考が開始された。

 1956年1月、中国共産党中央委員会は北京で全国知識人会議を開催し、周恩来首相が「知識人に関する報告書」を提出し、党と全国の人々に「科学に向かって邁進(向科学進軍)」を呼びかけた。この「知識人に関する報告書」では、科学技術発展のために長期計画を策定するとされ、これが「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」であり、国務院に設置された科学計画委員会や全国の600人以上の科学技術関係者が協力し議論した結果として1956年12月に公表され、建国後初の科学技術長期計画となった。それ以来、中国の科学技術は長期的な計画を持って進められることになり、この計画の策定と公表は中国の科学技術史上における大きな出来事となった。

 中国は、第二次世界大戦の戦勝国としての地位確保や朝鮮戦争での米国の核兵器による威嚇への対抗などの理由により、核兵器とミサイルの開発を進める「両弾一星」政策を決断し、前記の「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」で位置づけ、ソ連にも協力を仰いだ。

大躍進政策とソ連との対立

 1958年に毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし急速な人民公社化は、党幹部を意識した誇大報告の横行、極端な労働平均化など深刻な問題を引き起こした。1959年と1960年には天災も重なり、大規模な飢饉が中国を襲い大量の餓死者を出した。
 1960年代初頭には人民公社の縮小が行われ、毛沢東が自己批判を行い、劉少奇や鄧小平が政治改革や経済調整を開始し、大躍進政策での惨状からの脱出を目指した。この方針に基づいて初めて作成された政策文書が「農業六十条」であり、続いて1961年5月に発表されたのが国家科学技術委員会と中国科学院による「自然科学研究機関の当面の活動に関する十四条の意見(草案)」である。

 両弾一星政策も大きな転換点を迎えた。スターリンの死後フルシチョフによって「スターリン批判」が行われ、中国とソ連との意見対立が徐々に表面化し、1959年にソ連は原爆技術供与に関する国防用新技術協定を一方的に破棄し、1960年には中国に派遣していた専門技術者を一斉に引揚げた。中国は両弾一星政策を続行し、1964年に核実験に成功して軍事的な自立化への大きな一歩を踏み出した。

 1963年には、前記の科学技術発展遠景計画綱要策定後の中国と世界の科学技術発展状況を踏まえ、「科学技術発展計画綱要(1963年~1972年)」が策定されたが、1966年に始まった文化大革命により十分な展開は不可能となった。

科学技術の特徴~科学に向かって邁進

 この時期の科学技術政策は、毛沢東主席の主導のもとで周恩来首相が実務的に支えた。この時期における中国の科学技術活動を表す言葉は、「科学に向かって邁進(向科学進軍)」である。これは、1956年に周恩来首相が中国共産党中央委員会の会議での報告で使用した言葉であり、清朝末期や中華民国の時代の動乱期に十分に発展しなかった近代科学技術活動を、新中国の発展とともに進めようという決意が表明されている。

 科学技術政策や活動の特徴は、以下の通りである。

 一つ目は、新中国での科学技術関連機関や高等教育機関の整備である。
 新中国においては、科学技術政策を通じて科学技術の発展を支援、指導、調整することが、政府の重要な任務となった。国民政府時代の遺産である中央研究院と北平研究院の資産や人員が接収され、新たに中国科学院が創設された。中国科学技術協会、中国気象局、国家地質部、中国医学科学院、中国農業科学院なども次々に創設された。
 また、日中戦争や国共内戦時に地方に移転し活動の停滞をやむなくされていた大学が、北京や上海などで教育・研究活動を再開した。
 これにともない、戦争や国共内戦を避けて外国で研究活動を行っていた中国人の研究者で帰国するものが増えていった。
 また、優れた学者を認定しその意見を聴取するため、中国科学院学部委員(現在の中国科学院院士)制度も構築された。

 二つ目は、冷戦構造下におけるソ連との協力とその中断である。
 建国直後に起こった朝鮮戦争がその象徴であるように、新中国は東西の冷戦構造の中で経済活動を進めていく必要があり、そのためには東側陣営の盟主たるソ連との協力が不可欠であった。科学技術や高等教育も例外ではなく、ソ連を範としてその構築が進められた。
 中国科学院などにソ連の科学者が招聘されるとともに、多くの若者がソ連や東欧諸国に留学した。大学では、ソ連を範として専門技術者の育成に重心を置く単科大学を目指す院系調整が実施された。
 しかし、フルシチョフのスターリン批判により中ソ対立が発生し、1960年には中ソの協力が中断され、中国に派遣されていた専門技術者が一斉に引揚げられた。

 三つ目は、計画経済の中で科学技術についても中長期計画や五か年計画を策定し、それにしたがって実施されるプロセスが形成されたことである。
 ソ連を範として社会主義経済の工業化を目指し、1953年に国全体の経済に関する「第1次五か年計画」が策定されたが、科学技術もこの五か年計画に歩調を合わせて発展させるため、1956年に建国後初の科学技術長期計画である「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」が策定された。
 そしてこの綱要を策定するために国務院に設置された科学計画委員会が、現在の科学技術部となっていった。

 四つ目は、両弾一星政策の開始である。
 朝鮮戦争の際、膠着状態に陥った戦線を打開するため、国連軍のマッカーサー総司令官が中国への核兵器を含む攻撃を主張したことを毛沢東や周恩来らの共産党幹部は厳しく受け止め、第二次世界大戦の戦勝国としての立場を確保することをも念頭に、核兵器開発を含む両弾一星政策を決断することになった。
 中国は、当初中ソ友好同盟相互援助条約や中ソ科学技術協力協定などに基づき、ソ連から原爆やミサイル開発の協力を受けたが、1959年にソ連が一方的に協力を中断したため、それ以降は独自開発を推進していった。

科学技術の成果

 この時期は、新中国の科学技術における基礎を築いた時期であるが、成果もいくつかの分野で挙がっていった。

 毛沢東や周恩来が主導して進めた両弾一星政策による成果が、その最たるものである。副総理で国家科学技術委員会と国防科学技術委員会の主任を兼務する聂荣臻(じょうえいしん)元帥をヘッドとして、銭学森や銭三強らの有力科学者を総動員して進められ、1960年に初めてのミサイル「東風1号(DF-1)」を打ち上げに成功した。続いて、1964年10月、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の核実験に成功した。さらに同月、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルを打ち上げ、20キロトンの核弾頭をロプノール上空で爆発させた。これによって、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。

 学術的な研究成果も現れた。1963年、山東省青島市にある中国科学院海洋研究所所長の童第周博士は、世界で初めて魚類のクローン作製に成功した。
 1964年には、中国科学院上海生物化学研究所の鈕経義(ちゅうけいぎ)と龚岳亭(きょうがくてい)らは、ポリペプチドを使ってウシ・インスリンのB鎖を人工合成し、これと天然のA鎖の再編することにより、インスリンを作り上げることに成功した。続いて1965年、中国科学院上海有機化学研究所汪猷(おうゆう)研究者と北京大学化学部の邢其毅(けいしき)教授は協力して、インスリンA鎖の化学合成を完成させ、ウシ・インスリンの完全な人工合成に成功した。

 しかし、この時代は経済の停滞期であり、両弾一星を中心とした国防科学技術を例外として、他の一般科学技術に充当する資金や人材が十分ではなく、欧米などの先進国と比較してかなりの格差があった。