1. 郭沫若(初代、1950年~1978年)

郭沫若の写真
郭沫若初代院長

 中国科学院の初代院長となった郭沫若は、1892年に四川省楽山に生まれた。1914年に日本へ留学し、第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。九州帝国大学在学中から文学活動に励み、いくつかの詩集を発表している。1923年中国に戻り、国民党の北伐軍の総政治部主任となるが、1927年蒋介石と対立し、国民党を脱退した。その直後に、中国共産党が江西省で起こした南昌蜂起に参加するとともに、中国共産党に加入した。南昌蜂起では中国共産党の革命委員会が設置されたが、国民党軍の包囲にあって5日間で広州への撤退を余儀なくされた。郭沫若は、国民党に追われ1928年2月日本へ亡命した。1937年の日中戦争の幕開けとなる盧溝橋事件が起こると、再度帰国して国民政府に参加し、1942年に重慶で代表作となる戯曲『屈原』を発表した。新中国建国後は、政務院副総理、中国科学院院長に就いた。1978年北京で病没している。

 郭沫若は、日本に若くして留学したことや日本人女性と結婚するなど、日本との関係が深い。郭沫若は生涯3度結婚している。一度目は、日本に留学する前に親が決めた結婚で、結婚後5日後に別居状態となった。日本留学後の1916年に、仙台出身の佐藤富子(中国名は郭安娜)と結婚した。1923年に、富子は夫と一緒に中国に赴くも、1928年には亡命の形で日本に夫婦で戻っている。日本での住居は千葉県市川市真間で、1937年に郭沫若だけが日本を離れた。富子は郭沫若に会うため戦後中国へ渡るが、郭沫若は既に中国人女性と再婚をしていた。しかし、富子は子供たち(息子4人、娘1人)を中国人として中国に送り出した後、自らも中国の遼寧省大連へ移住し、上海で1995年に101歳で亡くなった。

 文革発生直後の1966年4月、中国科学院院長であった郭沫若は全国人民代表者会議の副委員長として常務委員会に出席し、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行った。これは自身を守るためであったが、結果的に知識人の思想改造の成功例として取り上げられることとなり、以降毛沢東の庇護を受けている。

2. 方毅(第2代、1979年~1981年)

方毅2代院長
方毅2代院長 百度HPより引用

 1976年、四人組の逮捕により文化大革命が終了したが、郭沫若院長は病気がちであり、また文革派に近い立場と考えられていたため、影響力が極端に低下してしまった。これを救い、中国科学院の再建に尽力したのが2代目の院長となる方毅である。方毅は学者や研究者でなく、政治家で軍人であり、歴代の中国科学院長の中では例外的な経歴の人である。

 方毅は、1916年福建省アモイに生まれ、10代の半ばで中国共産党に入党し、武装闘争や革命運動に参加した。18歳のとき上海で身柄を拘束されるも、獄中で理論の学習や文化知識の習得に励んだ。1937年に救出され出獄した後、湖北省、安徽省などで日本軍に対する抗戦を指揮し、戦後の国共内戦中は華東地区における財政・経済活動に従事した。新中国建国後、1949年に福建省副主席、1952年に上海市副市長、1953年に政務院財政部副部長を歴任した後、1954年から1961年にベトナム民主共和国(当時の北ベトナム)に派遣され同国の経済発展を支援した。1961年に帰国し、国家計画委員会副主任兼対外経済連絡総局局長、1970年に対外経済連絡部長を勤めた。1966年から始まった文化大革命では、林彪、江青(Jiang Qing)らのグループから迫害を受けるが、周恩来を補佐して外国を援助する任務を履行し続けた。

 文革終了後の1977年1月、方毅は共産党中央の意向に従い中国科学院副院長に就任し、文革の混乱の修復に当たる。方毅は全国の科学者の士気を高めるため全国科学大会の開催に尽力し、1978年3月に約6,000名の科学技術関係者を北京に集めた。同大会で鄧小平国務院副総理は、科学技術は生産力そのものであり知識人はプロレタリアートそのものであると位置づけ、その上で「四つの近代化」の一つである科学技術の近代化を強調した。1979年1月、方毅は鄧小平が率いる訪米団の副団長として渡米し、高エネルギー物理、宇宙技術、基礎研究などでの中米協力協定を締結し、米国への留学制度を構築した。郭沫若が1978年に死去したことを受け、1979年7月に方毅は2代目の中国科学院院長に就任した。院長としての在任期間は短く、1981年には盧嘉錫が第3代の院長に就任した。方毅は、院長を退任後も中央政府の要職を歴任し、1988年には全国政治協商会議副主席に就任の後、1997年に北京で逝去している。

3. 盧嘉錫(第3代、1981年~1987年)

盧嘉錫第3代院長
盧嘉錫第3代院長 百度HPより引用

 盧嘉錫は、1915年に福建省アモイに生まれ、1934年にアモイ大学化学学部を卒業し、1939年にロンドン大学で博士号を取得した。その後、カリフォルニア工科大学、カリフォルニア州立大学などで燃焼に関する研究を行った後、1945年に帰国し、アモイ大学化学学部教授となった。1960年には中国科学院の福建物質構造研究所所長となり、遷移金属クラスター構造化学などの分野で成果を挙げ、1981年に第3代中国科学院の院長に就任した。

 院長時代の功績としては、国家自然科学基金委員会(NSFC)設置のきっかけとなった中国科学院科学研究基金の創設や、傘下の研究所の科学業務の責任を所長に全面的に預ける「所長負責制」の実施などが挙げられる。

4.周光召(第4代、1987年~1997年)

周光召4代院長
周光召4代院長 百度HPより引用

 周光召は、1929年に湖南省長沙に生まれ、1951年に清華大学物理学科、1954年に北京大学大学院理論物理専攻を卒業した。1957年に旧ソ連のドゥブナ合同原子核研究所に入所し研究業務に従事した後、1961年に帰国して第二機械工業部に所属し、中国初の原子爆弾及び水素爆弾の設計に従事した。

 1979年に中国科学院理論物理研究所に移り、副所長、所長を勤めた。1980年に中国科学院学部委員(現在の院士)に当選し、1984年に中国科学院副院長に就任した後、1987年から院長を勤めた。

 周院長の時代は、1991年の第二次天安門事件、1992年の鄧小平「南巡講話」など中国の政治経済体制が大きく変化した時期である。この時代背景を受けて、人員削減及び機構の簡素化、効果と利益の向上、業務姿勢の改善など、中国科学院の抜本的な改革を進めたことが、周院長の大きな功績である。さらに、1993年に従来の学部委員の名称を中国科学院院士に変更するとともに、1994年から国内外の優秀な人材確保を目的として「百人計画」を実施するなどした。

5.路甬祥(第5代、1997年~2011年)

路甬祥第5代院長
路甬祥第5代院長 百度HPより引用

 路甬祥は、1942年に浙江省寧波に生まれ、1964年に浙江大学機械学科を卒業し同大学の教員となった後、1979年にドイツのアーヘン工科大学に留学し、1981年に同大学より博士号を取得した。その後再び浙江大学に戻り、1988年には同大学の学長に就任した。流体伝導及び制御の専門家であり、1991年に中国科学院学部委員に選出され、1994年には中国工程院院士にも選出された。1993年に中国科学院副院長に就任し、1997年から5代目の院長となった。路院長は、浙江大学に長く勤めたのち学長に就任した研究者であるが、中国科学院の傘下の研究所の研究員や所長としての職歴がない点で、前任の周院長、前々任の盧院長と異なっている。

 路院長の業績としては、21世紀に入っての中国経済の爆発的な発展を契機に、中国科学院の科学技術ポテンシャルの近代化を進めるとともに、「創新2020」の実施などを通じて、院の研究開発の方向をイノベーションに大きく舵を切ったことが上げられる。

6.白春礼(第6代、2011年~2020年)

白春礼第6代院長
白春礼第6代院長 百度HPより引用

 第六代の中国科学院院長は白春礼である。白春礼は、1953年に遼寧省で生まれており、満族出身である。満族は中国大陸東北部を中心に居住し、55ある中国少数民族の一つである。1978年に北京大学化学科を卒業し、一年弱中国科学院長春応用化学研究所に勤務の後、北京の化学研究所に移動し博士号を取得している。1985年に米国カリフォルニア工科大学にポスドク研究員として派遣され、STM(走査型トンネル顕微鏡)の研究に従事した。1987年に再び化学研究所に戻りSTM実験室の主任となっている。さらに1991年から約1年半にわたり、日本の東北大学金属材料研究所の客員研究員を勤めた。日本から帰国後の1992年には、39歳という若さで化学研究所の副所長となり、さらに1996年には中国科学院副院長に昇格した。1997年には中国科学院の院士に当選し、2004年には中国科学院全体のナンバーツーである常務副院長に昇格し、2011年に路甬祥第5代院長の後をついで中国科学院の院長に就任した。2020年に院長を退任した。